健康管理は大切 家族性多発性脳海綿状血管腫 障害者の両親と共に

父の闘病記は人の命を救い、高校生の進路選択に影響を与えた

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このブログの柱の1つは障害を持って生き抜いた家族の記録。無名のまま生きて死んでいった3人と、まだ闘病中の2人の記録だ。みんな脳血管奇形からの出血で健康を奪われた。

私はこれまで病気の話をほとんど人に話さなかった。生い立ちについて語ることもほぼなかった。信じてもらえなかったからだ。「お涙頂戴」の作り話をしているかのような空気感に堪えられず、私は長く口をつぐんだ。

 

目次

家族全員の闘病記を書こう。脳海綿状血管腫と共存し それなりに楽しく生きてる私の生活と共に

この闘病ブログを書きはじめるにあたり、私には別のためらいがあった。読んでもらうことでポジティブな気持ちになってもらえればいいけど、その逆になってしまったらどうしようと。

でも書こうと決めた。

その代わり、病気だけでなく、ひとり旅のことも書こう。普段の生活の楽しみも書こう。脳海綿状血管腫があると宣告されても、それは死の宣告ではない。血管腫と共存しながら生きていくことは、この世の地獄を生きることではない。そう伝えるために。

闘病記というのは、読んでくれた人の心に刺さり、その後の人生を大きく左右することを私は知っている。こんな経験をしたからだ。実体験を3つ書き残してみたい。

 

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「あなたが世に訴えたいことを自分の経験で話しなさい」 高校の教科担当がそんな課題を出した

自分の経験から世の中に訴える値打ちのあることは何だろうか

「あなたが世の中に訴えたいことを教壇で話しなさい。一般論は評価しない。あなたのこれまでの経験から話しなさい。これがテストの代わりです」

「現代社会」という教科を担当する先生がそう言った。

テストの代わりだというなら、本気で話さなきゃいけない。

自分の経験で語れというなら、胸を張って話せる内容を選ばねばならない。でもそれは何だろう。

必死に考えたけれど、無難な内容がどうして頭に浮かんでこなかった。クソ真面目だったからかもしれない。不器用だったからかもしれない。結局、どストレートな直球を投げることに決めた。

幼少期から見てきた障害者の父のことを語った

障害者として生きてきた父の姿と、父を取り巻く社会の目、福祉政策のありがたさと問題点について私は語った。ありのままの暮らしを語った。クラスメートの精神年齢の高さを信じて。

教室の雰囲気が明らかに変わった。「幼少期に虐待を受けた」と告白する子まで出はじめた。家庭に恵まれた子達が多い学校だっただけに衝撃が大きかった。「同じ制服を着ているけれど、ここにたどり着くまでに、こんなに過酷な経験をした人がいるんだ」という、非常に引き締まった雰囲気の授業になっていった。

・・思い出した。私が教壇から降りた時、ひとりの男子が立ち上がり、握手を求めてきた。その子は今、とある研究施設でガン研究を続けている。人の命を守るために何ができるのかを真剣に考えた結果だと彼は語った。いい仕事をして欲しいと願わずにはいられない。

 

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父の死後に新聞社に送った投書が 障害者男性の自殺を引きとめていた

父が生きてた証を残したい 私は発作的にペンを握った

不自由な上に短い人生だった。熱い骨に変わってしまった父が入った熱い骨壷を抱えながら、「何かひとつでもいい。こんな生涯を送った男がいたという証を残したい」という気持ちを私は抑えられなくなった。

どんな目に遭いながら障害者として短い人生を終えたのか。覚えている限りのことを発作的に書き殴り、勢いにまかせて新聞社に送った。

担当者から内容について丁寧な確認の電話が来た。「そう伝えたいならここはこう直しませんか?」というやりとりを経て、私の文章は新聞に掲載された。

 

私の記事を支えに生きてきたという男性に出会った

インターネットが使える時代にはいった。ある日、検索窓に自分の名前を入れてエゴサーチしてみたら、個人のブログがひっかかった。罵詈雑言なにかを書かれていたら恐ろしいな・・と思いつつ開いた。書いていたのは、障害を持って生きてきた男性だった。

文章と共に添えられていたのは、変色してぼろぼろになっている新聞の切り抜きがはさまった手帳の画像だ。

私が新聞社に送った文章は大体こういう内容だ。

「脳動静脈奇形の手術をして障害者になるか。それとも大出血をして死を迎えるか。どちらかを選べ」。そう言われた時、幼い私たちの今後を心配し、不自由な人生を覚悟して手術を受けた父

世間は身体障害者に冷たかった。よたよたと歩いている父にわざとぶつかって倒し、笑って立ち去った大人のことを私は今でもはっきり覚えている。それでも私を大学に進学させるために父は頑張り続けた。

しかし心の中に溜まっていた苦しさは相当なものだったんだと思う。時折とても激しい怒りを私たち家族にぶつけることもあった。けれど父を見送った今、私は思う。そうやって心のバランスを取り、苦しい人生を生きてきた証でもあるんだと。

あなたの人生は短かった。苦しかった。だから、あなたが旅だった日が、桜が咲くあかるい春の一日であったことは、せめてもの慰めになっている。お疲れさまでした。ありがとう。

 

「この文章を書いてくれた方へ。ありがとうございました」

 

ブログで私の記事を紹介してくれたあとに、こんな感想が添えられていた。

 

私の命を何度も救ってくれた文章です。死にたいと思ったことは数知れません。障害を負ったことで家族とも疎遠になりました。これを読んだ時、障害を持ちながら苦しみを乗り越え、自ら命を絶つことなく、与えられた命を生き切った人がいることを知りました。おかげで自殺を何とか思いとどまることができました。書いて下さった方、本当にありがとうございました

 

ありがとうございましたと言いたいのは私の方だよ・・。名もなく功もない父の人生を心の支えにして下さるなんて。

発作的に書いた文章がここまで人の心を打つとは、書いてる時にも新聞に載った時にも、全く考えてもみなかった。

 

更新が随分前に止まったままのブログに向かって 私は頭を下げた

お礼を送信しようか随分悩んだ。なぜなら、その方の心の支えが、新聞記事から生身の人間に変化するかもしれないからだ。当時の私には、その方の悲しみを支える程の力ははない。そっと心の中でお礼を言い続けよう。そう決めた。

ブログはもう随分前に更新が止まっている。ご存命かどうか分からない。けれど、記事を書き続けていた頃は確実にその方は生きていて、父の人生を心の支えにして下さっていた。自殺を何度も思いとどまって生きておられた。

障害者家庭の生活・闘病記・家族の思いを公の場で発信することの重さを強く感じた。単に私個人の思いが昇華すればそれで終わり・・じゃないんだなと。

その新聞記事は、数年後に書籍化された。本のごく一部にしか過ぎないけれども。

 

父の生涯を書いた記事は 女子高生の進路を決めた

病気と闘いながら 家事と部活と受験勉強を頑張っている少女と出会った

それからまた数年が経った。

私の身体にも、脳海綿状血管腫による色々な症状が現れるようになり、通院生活が始まった。予約制の病院なので、同じ曜日の同じ時間に待合室にいるのは、だいたい同じ人たちだ。その中のひとりだった女子高生と私は仲良くなった。

自分の病気のこと、父親が倒れたこと、部活ではキャプテンをしていて部員をまとめるのが大変なこと、母親が働きに出て自分が家事一切を任されたこと。なんだか自分の高校生活とよく似ている。しかも病気を抱えながらたくさんの波にのまれそうになっている。そろそろ進路を決めないといけない時期にもなっている。

「でも、進路だけははっきりしてるんです。気持ちは揺らぎません。私は看護師になります。病歴があるから面接で落とされるかもしれません。でも、チャレンジもしないで人生の選択肢を自分でせばめるのは違うと思うんです

とてもしっかりした少女だ。大人でもここまで言い切れる人間はそう多くあるまい。かつての私がそうであったように、普通とはいえない経験にもまれていく中で、他の子達より早く大人になっていったのだろう

 

「私が看護師を目指すきっかけはこの本のこの記事です」 そこには私の名前が書かれていた

「小学生の頃、本屋で何気なく手に取ったこの本が私の進路を決めてくれました。ほんとうに何気なく、ぱっと開いたページにこんな記事があったんです。障害を負った身体を遊び半分のバカに突き飛ばされ、辛い経験をたくさんし、それでも働き続けて子供さんを大学に行かせたって書いてあります。

でも時折、その怒りが家の中で大爆発を起こす。それを見つめ続けた子供さんの視点が温かいんです。家の中、きっとグチャグチャだったんじゃないかと思うんです。今のうちの家がそうだから。なのにこの記事を書いた人は、『今なら分かる。その怒りの意味が分かる。愛おしいとさえ思う』と言いきってる。すごくないですか?書いた人も、そのお父さんも。

私は医療の道に進もうと思っています。私に何ができるかは分からない。でも、ハンデを抱えてそれでもなお人生を歩んでいく人たちの支えになりたい。病人にしか分からない悲しみって、あるじゃないですか?

彼女が指さしていた記事。それは私が大昔に書いた記事だった。

 

たとえ病に倒れても。不幸に突き落とされたとしても。立ち上がればいい。はい上がればいい。

今度は言おう。それを書いたのは私だと。

医療の道に進むと決めた少女には是非知ってもらいたかった。たとえ病に倒れても、残された種が芽を吹き、成長し、葉を茂らせ、陽の光を浴びて生きていけることを。残された種は、その人の残存機能かもしれない。もしその人が亡くなってしまったなら、残された種はその人のお子さんってことになるのかもしれないねと。

患者は名前ではなく番号で呼ばれるシステムだった。だから彼女は私のフルネームを知らない。

 

診察券を見せた この記事を書いたのは私だよ

見せられた診察券を見た瞬間、彼女は大声で泣き始めた。

「私、通学用のカバンにずっとこの本を入れて学校に行ってるんです。支えだったんです。いま正直言って本当に辛いんです。でも、もっと辛い思いをして生きてきた人がいて、辛い思いをしてきたのに温かい目でお父さんを思いやることができる。そんな人になりたい。そういう仕事がしたい。ずっとずっと思ってたんです!」

「色々あったよ。だから大学に行きたかった。将来を切り開く武器を手に入れるために。たとえ相手が病であっても、倒されっぱなしは悔しいもんね。環境のせいにしても人は幸せにはなれないからね。

懐かしいなその記事。泣きながら書いた走り書きや。泣いた勢いで封筒に入れて新聞社に送った。本にまで載せてくれて、ありがたかったよ」

 

静かな待合室で多くの人が泣いた。

 

この記事を読んだ同病者の方に伝えたい

余計に不安にさせてしまってませんでしょうか

私はこのブログを書くにあたり、脳血管奇形や障害を持った人間のリアルをネット上に書き残していいのか、ずっと考えていた。父の奇形は能動静脈奇形。大出血を起こすと言われて手術を受けた。それ以外の家族は、私も含めて多発性脳海綿状血管腫を持っている。母も子供も持っているってことは遺伝性の脳血管腫だ。脳幹にもある。こういうケースは珍しいと言われた。

病名を入れてネット検索する人は、不安を確実に抱えている。不特定多数の方々の不安を私の記事が増幅したらどうしよう。そう思いながらいつも記事を書いている。

 

脳海綿状血管腫がたくさんある、脳幹にもある。そんな私でも楽しく生きてるって伝えるブログです

検索などでこの記事にたどり着いた方に伝えたい。

確かに私の脳内には多発性の脳海綿状血管腫がある。MRIのT2*という撮影方法だと、出血痕がはっきり分かる。数えきれない数だ。

でも私は生きている。健常者と全く同じ仕事をしながら生きている。ひとり旅をするようになって35年経っている。まだ現役のバックパッカーだ。ダイエットもした。結婚もしている。猫や花の世話をし、本を読んだり音楽を楽しんだりして、意外と楽しく生きている。

 

病と共に生きる人生を あなたはどう生きていきたいですか

無茶をしてはいけない。医師の指示には従ってほしい。薬もきちんと飲み、定期検診は絶対に受けてほしい。

悲観し過ぎないで欲しい。将来どうなるか分からないのは健常者だって同じだ。不自由なことがないとは言わない。でも、工夫と心の持ち方次第で、人生は天国にもなるし地獄にもなる。あなたはどちらを選びたいか。決めるのはあなただ。

病気と環境に、大事な人生を壊されてたまるものか。崖から突き落とされたら登ればいいじゃないか

よかったら、私の別の記事も読んでみてほしい。どんな幼少期を送ったか。ひとりで世界を旅して何を見てきたか。そして、自分の身体に不具合が出はじめてから今までを、何を考えてどう生きてきたか。これからも順番に書き残していこうと思うから。

誰かの心にこの記事が届くことを祈りつつ筆を置く。

病にあなたの人生を乗っ取られるな

 

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いめゆんな

多発性脳海綿状血管腫(家族性・脳幹部含む)を持つ軽度障害者です。与えられた身体や生活環境と折り合いをつけ、最大限の楽しみと幸せをつかみたい、と思いながら生きてきた半世紀を綴ってます。海外ひとり旅歴35年。京都大学卒。医学・医療系大学の講師です。

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