●かつて私はお嬢様だった●
鮮明に覚えていることを2つ書いてみようと思う。
父は私をよく寿司屋に連れていってくれた。当時は回転ずしなどない。職人さんが客の注文を聞いてから握る、いわゆる「回らない寿司屋」だ。
「お嬢様に次は何を握らせていただきましょうか」
うやうやしく職人が父に声を掛ける。すかさず私は「はまち!」と大声で注文。父は困った顔をしてこう言うのが常だった。
「カッコ悪い子やなあ。なんでそんな安モンばっかり頼むんや」
私は食欲旺盛でよく食べた。苦くてあまり好きじゃないものもあったけど、食べなさいと言われてしぶしぶ食べたものもある。ウニだったのかもしれない。
2つ目の記憶は、私が自転車に乗る練習をしていた時のことだ。
補助輪を外す練習を始めた時には、今思えばすごいことになっていた。自転車を後ろで支えるおじさん、倒れてもケガをしないように左右にもおじさん。父はにこにこしながら私の真正面でかがみ、満面の笑顔で私を励ましていた。今思えば多分、会社の若手従業員を家に呼んで、あれこれ用事をいいつけていたんだと思う。おそらく休日返上で。本当に申し訳なく迷惑な話だ。
こんなショボいエピソードで「お嬢様」を名乗るのはおこがましいよね。でも、これ以上詳しく書きすぎると身バレするのでこれくらいにしておく。とりあえず身近な人以外は私のことを「お嬢様」と呼んでいた。一応幼稚園にも通った。たいした距離ではなかったけれど、送迎用の車に乗せられて。
父が服用していたのはてんかん薬だった
父はとてもアグレッシブでプライドの高い人だった。その一方で、まだ若いのに沢山の薬を服用していた姿も覚えている。抗けいれん剤と呼ばれていたそれらの薬は、要するにてんかん薬。最初に発作を起こしたのは、私が産まれる直前だったそうだ。しかし薬が奏功したようで、その後は一度も大きな発作を起こさなかった。発作の原因は分からぬまま、とりあえず対処療法的な薬が投与されていたようだ。
癲癇の原因は脳動静脈奇形だと判明
私が6歳、弟が3歳になった頃のことだ。突然、母が私たち二人のまえにかがみ、抱きかかえるようにしてこう言った。
「お父さんがいなくなってしまうのと、身体が動かなくなってもそばにいてくれるのと、どっちがいい?」
唐突にどうしたんだ。なぜそういう二択を突きつけられてるんだ私たちは。しかも母の様子が尋常ではない。気丈な母は泣いたり取り乱したりはしていなかった。けれど、いつもとは違う目をして、ただじっと私たち子供の目の奥を見据えていた。事情はよく分からない。でも今すぐいなくなるってどういうことだ。確かに父は薬を沢山飲んでたけど、そんなに大変な病気だったの?あんなに元気そうなのに。
なぜだ。
なぜだ。
なぜだ。
頭の中で色んな言葉がぐるぐると巡りはじめた。しかしそれらの疑問に答えを出す前に、私も弟も即答していた。
「生きていて欲しい。いなくならないで欲しい」
母はかすかにうなづいた。ほっとした表情に見えた。
そんなことが起こった原因は、大きな病院できちんと検査を受けた結果、父の脳内に脳動静脈奇形という異常があると分かったからだ。当時の医学では、頭にメスを入れて取り除かなければ、いずれは脳出血を起こして最悪の事態になる病気だと言われていた。
てんかん発作の原因は特定されたが、治療は開頭手術のみ。確実に身体障害者になる。しかもどの程度の障害が残るかは、手術してみないと分からない。多分、医師か父からそう聞かされ、母は突然の不幸を受け止め兼ねたんだろう。そりゃそうだ。誰だってそうなるよ。
あと何十年もの人生を、どの程度不自由な体で生きていかねばならないのか分からない。しかも命を救うためには、身体の機能を差し出すしか道はない。結論は出ていた。命が助かる方がいいに決まっている。
それでも私たちの意見を聞きたかったのは、「たとえ身体が不自由になっても、あなた達はお父さんを受け入れてくれるか?」きっとそこだったんじゃないかと思っている。
父の病気は家族の人生を一変させた
小さな会社ではあったけれど、父は創業社長だった。障害者になることが確定した段階で、会社をどうするのか色々揉めていたようだ。私にはその詳細は分からない。聞かない方がいいと思ったし、たとえ聞いたとしても、まだ幼稚園児だった娘に、そんなことを正直に教えはしなかったはずだ。
会社がなくなる。私が理解できたのはそこまでだ。
「これからうちは貧乏になるから、覚悟しなさい」
母はきっぱりと私に言った。貧乏というのは、具体的に何ができなくなることなんだろう。よく分からないまま、とりあえずうなづいておいた。
あとから分かったことだが、父は宵越しのカネを持たない系の人だったため、貯金があまりなかったそうだ。病気を持ってるんだから、堅実にお金を残しておけばよかったのに。薬で症状は抑えられているから大丈夫だと思っていたんだろうか。そんな折に突然「放っておくと破裂して命に関わることになりますよ」と診断されてしまった。あちこち大病院を回って診察を受けたけど、やはり結論は変わらなかった。
金の切れ目は縁の切れ目とはよくいったものだ
それ以降の時の流れはとても速かった。手術に向けてちゃくちゃくと色んな手続きが進められていく中で、一番大きな問題の一つは、私たち子供の養育だった。入院・手術が行われる病院は完全看護の病院ではなかったため、手術後もずっと母が病院でつきそいをせねばならない。私の下には3歳の弟もいる。子供だけでずっと家に置いておける年齢ではない。
父方の親戚は関西、母方の親戚は四国にいた。父が直々に「妻の付き添いが不要になるまでの間、子供を預かってくれないか?」と頼んだそうだが、兄弟4人ともそれを断った。その時のやりとりの一部を私ははっきり覚えている。ひとりのおばさんがこう言った。
「うちはあなたの家のように裕福ではない。小さい子供もいる。これ以上子供の面倒をみることはできない」
当然タダで子供を預かれなどと無茶を言った訳ではないと思う。けれども結果的に私たちは、父方の親戚の家でご厄介になることはできなかった。父の羽振りが良く健康(そう)だった頃は、我が家に頻繁に遊びに来ていた人達。しかし今は違う。私たちは、彼らを利する存在から、ただの迷惑の種になってしまってたわけだ。
高知行きフェリーの二等船室にて
幼稚園児の「お嬢様」と身体が弱い「おぼっちゃま」は、最小限の荷物を持った母と共に高知行きのフェリーに乗った。穏やかな瀬戸内海航路とは違い、高知行きの船は本当によく揺れた。粗末な二等船室の床でごろごろ転がされながら、私は古い毛布のケバ立ちを睨み続けていた。
事実は受け入れなければいけない。「はまち」の寿司を安モンだと馬鹿にしていた父は、もう二度と戻ってこない。
私が世間を疑い、群れるのを嫌い、ものごとを斜に構えてみるようになったのは、おそらくこの頃からだ。