ひとつ前の記事に、父がぎこちなく歩いている様子をまねして、笑いをとっていた男子に一撃を加えた話を書いた。
障害者の父をバカにした奴に フルスイングビンタをカマした件
なぜあんなことをしたのか。それは、以下のような記憶があったからだ。
能動静脈奇形の手術の後。
経過観察期間も終わり、今度はリハビリに力を入れている病院に父は転院することになった。
病院は遠く、私が病院に着いた時はリハビリの時間になっていた。
母に促されてリハビリ室の前で待つことにした。歩行を支えるバーが両側についている場所。手すり付きの3段だけの階段。はじめてみるものばかりだ。そのそばには、顔をゆがませ、ゆっくりと歩こうとする大人たちが見えた。父はこの中のどこかにいる。
あ・・あのおっちゃん倒れそう!ねんざしたら大変やで。あ、そうや。お父さんはどこやろ。
父は棒につかまって歩こうとしていた。けれど麻痺した左足が上がらない。左手は胸の高さまで曲がったままだ。腰を使って遠心力で左足を前へぶん投げようとしているけれどダメだ。動かない。動けない。麻痺した足はすごく重たそうに見えた。
顔が歪んでいる。麻痺のせいじゃない。くやしさのせいだ。
うわあああああああっ!!と叫ぶ父の声が私の心を刺した。
ところが横に立っている白い服の人はとても冷静だった。リハビリというのは、麻痺がおこってから6カ月が勝負。母はぼそっとつぶやいた。だから耐えないといけないんだと。
叫びながら恨みながら。それでも父は棒につかまって身体を揺らすばかりだ。前には進めない。これは何の罰なんだ。なぜこんなことになったんだ。麻痺した左腕はわきの高さまで上がっている。くそっ!何であがらんのやワシの足は。もうエエわ!もうエエ!もうエエんじゃあああ!
父は言葉を叩きつけている。射抜くような目で白い人を睨んでいる。
そんな父に対して白い人は鋭い言葉を言い放った。
一生そのままでよろしいんか?それでエエのなら病室にもどりましょ。もうこの部屋にくる必要はありませんわ。この病院にいる必要もない。いつでもおうちに帰りなさい。
何やとおおおおおおおおおっ!
うわ病院の人にケンカ売ってるでお父さん。あかんやん。ここ病院やん。
そこまで言うなら頑張りましょ。あなたの本気、私はちゃんと見てますで。
今思えば、白い人は父の性格をよく知っていたのかもしれない。負けず嫌いなんだとにかく。
「お母さん、リハビリってきびしいねんなあ」
母は私の目を見ずに、ひとり言のようにこう言った。
「この姿、きちんと見て覚えておきなさい。忘れたらあかん。泣きながらでも叫びながらでも、やらなあかんことが世の中にはあるんやで。大事なことは諦めたらあかん。のんびりしてたらあかんのや」
リハビリがどれくらいの時間だったのかはもう忘れてしまった。ただただガラス越しに父を見ていた。射抜くように見ていた。睨むように見ていた。
人はこうして歩くんや。こうして前へ進むんや。みっともない姿をさらしながら進むんや。いつかきっと歩けるようになる。足があがるようになる。叫べ。お父さん。叫びながら進め。
時が経った。
父は杖をついて家に戻ってきた。笑いながら家に戻ってきた。
そして、知り合いに作ってもらった簡単なリハビリ器具に両足を乗せ、体のバランスを取る訓練を始めた。腕を伸ばす訓練として、滑車の左右に綱を垂らし、左手を輪っかの上に置き、動く右手で反対側の綱を引っ張り上げる作業をずっとやっていた。
「あのなー」と腕を上下させながら父が私に声を掛けた。穏やかに笑っていた顔は今も忘れない。滑車の音が静かにキコキコ鳴っていたことも。
「転んでもな、誰かが抱き上げてくれるのを待つような人間になったらあかんねんぞー。転んでもええねん。誰でも転ぶねん。でもな、その後が大事なんや。
転んでいつまでも泣いてるヤツはアホ。踏まれるだけや。でもな、ただ立ち上がったらええという訳でもないんやで。あのな、立ち上がる時には、砂でもええ、石でもええ。とにかく何か拾ってから立ち上がれよ。
しょうもない(くだらない)もんやとその時は思うかもしれん。それでもええから、とにかく手ぶらで立ち上がったらあかんのや。砂でも石でも、いつか役に立つことがある。それを投げつけて勝負せなあかん時がある。せやから(だから)何か拾って立ち上がるんやぞ。ええな?」
勝負といっても、本当の石や砂を誰かに投げ付けてケンカをしろと言ってんじゃない。お父さんは、誰にでも辛いことはあるけど、その後ちゃんと頑張らなきゃだめだと言いたいんだよね。小学1年生なりに、私はここまでは理解できた。
少し大きくなった時、その言葉の意味がもう少し分かるようになった。
挫折した時の経験は将来必ず生きてくる。失敗から何を学ぶかが大事。石や砂は人生の教訓や経験のこと。それは次の困難を突破する時の武器になる。
多分そういうことを伝えたかったんだろうなと、私は今でも思っている。
私、思うんだけどね。グレられるうちはまだ幸せなのよ。親が悪い学校が気に入らない世間が悪い時代のせいだと、上手くいかないことを全部他人のせいにしてる人ってのは、心のどこかに「誰かが救ってくれるはずだ、っていうか救ってくれ」という甘えがある。道に倒れて泣いているだけの状態。
子供の頃から弟と「グレて甘えられるヤツはいいよなあ」とうらやましく思っていた。これは皮肉ではなく本当に。
誰も頼りにならない、助けてくれない。だったら自分の足で歩くしかないじゃないか。
世を恨むより、この世と戦え。
大人なんて誰もオレ達の気持なんかわかってくれない?
当たり前やろ。世代も違う、よく知らん人間のことを理解してくれる人は、そうそういるもんじゃないの。
なのに何でそこで校則破るかな?それで問題は解決するの?グレるってのは、悪いことをする構ってちゃんや。
小学生の時に思ったことをそのまま書き残しておくよ、少し今っぽくて大人びた言葉を使って。
人生のドン詰まりに追い込まれた時。社会的物理的に潰れたくなければ、人は必ずもがくものだよ。どういうもがき方をするかは、その人の人生経験とスキル次第。グレて群れてるうちは、まだまだよ。
(人生は捨てた!と思ってる人は、静かに倒れてそのまま動かなくなるのかもしれない。でも、経験のないことを偉そうに言ってはいけないので、今日はこれで筆を置く)
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