小学校入学のために預け先から家に戻ってきた頃、既に父の脳外科手術の噂は近所に広まりつつあった。
いつものように近所の友達の家に行き、玄関先で「○○ちゃ~ん、あーそーぼー♪」と大声で友だちを呼んだある日のことだ。玄関の扉が開いた時にそこに立っていたのは、友達ではなく険しい顔をしたお母さんだった。
うちの子と遊ばんといてくれる?感染したらイヤやから
「あんたとこのお父さん、頭の手術したんでしょ?そんな怖い病気が伝染したら困るから、二度とうちには来ないでよ!帰って!」
思いがけない言葉の石を投げつけられて、何が起こったのか理解するのに時間が掛かった。昨日までニコニコと出迎えてくれた人が、いきなりこんな恐ろしいことを言い放ってピシャっ!と玄関を閉めてしまうなんて。
伝染・・?お父さん・・?
ああそうか。伝染病にかかって頭の手術をしたっていう噂が流れてるんだな。脳血管の奇形だよ。生まれつきのものだって聞いてるよ。伝染なんかしないってば。
これが 世間か。
お前とこのお父ちゃん アホになったから頭の手術したんやろ?
電柱にもたれて昼から酒を飲んでるおっさんから飛んできた言葉も誤解だらけだった。
「お前んところのお父ちゃんはアホやから頭の手術をしたんやろ?アホは遺伝するからなあwお前もアホや。アホになる。可哀想になあw」
この人、本気でこんなことを考えてるの?昼間から酒を飲んで、子供をアホよわばりするおっさんの方やろアホなのは。
命と引き換えに身体が動かなくなることを覚悟で、うちのお父さんは手術を受けたんだよ。生き続けるために手術をしたんだよ。アホを治す手術なんかしてへんわ。
事実を知らないくせに、勝手な憶測で人をおとしめ、相手がどれだけ傷ついてるかも考えずに酷い言葉をぶつけて楽しんでいる。
これが 世間か。
男たちは 麻痺した身体で歩いている父を横倒しにし 笑って立ち去った
これは数年後の話になるけれど、父と一緒に道を歩いていた時のことだ。苦しいリハビリを続けてやっと特殊な靴を履けば杖なしで歩けるところまで回復していたというのに。
道の向こうからイヤな笑い方をした男が二人、こっちに向かって歩いてくる。そして段々近づいてくる。お父さんにぶつかるじゃないか。どいてよ、こないでよ。
そう思った瞬間、そいつらはわざとぶつかり、父を倒して笑いながら立ち去って行った。
「待て!何するんや?!」
大声で男たちを呼びとめようと声をあげた私の足を、道路に倒れたままの父が引っ張った。
「やめとけ。危ない」
そして遠くから男たちは
「やかましいわw 百貫デブの癖に!」
「貫」というのは昔の重量単位。「百貫」ってのはとても重たいってことだ。私の体型を馬鹿にして、さらに大きな笑い声を出して歩き去ってしまった。
やっぱり これが世間なんや。
道路に倒れたままの父は 割れた眼鏡の向こうで 赤い涙を流してた
父は左の手足に麻痺がある。立ち上がろうにも踏ん張ることができない。百貫デブの私が懸命に手を引っ張ったけれど、身体に力を入れられない大人の男を立ち上がらせることはできなかった。
もう誰も信じられない。その辺を歩いている大人たちも、どうせまた口汚く私達をあざわらい、刃物のような言葉で心を切り裂いていくんだろう。
「お父さん、おまわりさんやったら大丈夫や。ひどいことはしないと思う。すぐそこやから。待っててや。待っててや」
走り出し、振り向きざまに父の顔を見た。メガネが割れていた。赤い涙が頬を伝っているのが見えた。顔に傷ができていた。
私が賢くて強い人間なら お父さんを馬鹿にされずに済むかもしれない
世間は冷たい。弱いものをえじきにして笑い、踏みつけてプライドをずたずたにし、何の罪悪感も持たない人間の集まりだ。
私はもっと強くならなきゃいけない。賢くならなきゃいけない。私は本気で勉強をしようと心に決めた。賢い子のお父さんなら、身体は不自由だけど賢い人だと思ってもらえると信じてた。
おとなしく素直にしてたら可愛がられるなんて嘘や。足元を見られたらあかん。
今にみてろ。
今は非力な子供でも、いつかは大人になるんやぞ。
半世紀生きた今なら分かる。直球で書こう。
高いところから人を見下したり嘲笑したりするヤツ。それは向上心を持たないクズ。
流言飛語に惑わされて冷静さを欠いているヤツ。それは自分の頭でものを考えないバカ。
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