障害者と生きる・障害者として生きる

障害者家庭の我が家が ドキュメンタリー番組に出演した日

 

小学2年生の冬のことだ。

「明後日からテレビの人らがウチに撮影しにくるから」

母が突然とんでもないことをさらっと口にした。父が障害者になってからの母は、何事も淡々と話す人に変わっていた。少し感情が擦り切れていたのかもしれない。

「テレビ?! な。なんでテレビの人が来るん?! うち、なんか悪いことしたん?!」

一般人がテレビや新聞に出るのは犯罪を犯した時ぐらいじゃないか。お父さんが障害者になっただけでも一大事件だというのに、さらに我が家に何が起こったんだ?

「頑張ってる障害者を紹介する番組に出るんや。府の教育委員会が製作するんやて」

 

よかった。「頑張ってる」ってことは、お父さんは「ええ人」として紹介されるんやな。

お父さんはここまでほんまに頑張ってる。テレビの人がそれを誉めてくれる番組なんや。

障害者なうえに犯罪者にまでなってたら悲惨極まりないわ。とにかくほんまによかった。

父の努力を認めてくれる人たちがいる。それを世に知らしめようとしてくれている。

私は心底誇らしく思った。

 

 

父の脳内には脳動静脈奇形があり、一か八かで手術をしたのは2年前のことだ。

しかしそこから先の過酷なリハビリ、父が受けた冷酷な仕打ち、子供に向けられる憐憫の形をした優越感の数々を私は忘れていない。

今もその真っただ中にいる。

だから嬉しかった。緊張などなかった。

父がどれだけ頑張ってここまできたか。家族4人で暮らせるようになった喜びがどれほどのものか。是非見て欲しい。わくわくした。

 

 

放送は昭和50年1月26日(日)。1975年の冬の出来事だ。今から45年も前のことになってしまった。

主な登場人物は30代の両親。8歳の私と5歳の弟だ。

撮影は2日間。大きなカメラを抱えた人とインタビュアーの方などが、私達4人の日常を密着取材していった。

どんな番組に仕上がったのか。おおよそのあらすじを記録してみたいと思う。

 

記事の最後に、映像の一部を加工して貼り付ける。

私が以下の記事に書いたことが事実だと分かる部分を切り取ってみた。

過去に何があろうとも。ガケを登り続けてでも。幸せになることを諦めちゃいけない

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番組の冒頭は、緩いスロープを笑顔で歩く両親の姿から始まる。駅ひとつ向こうにある展望台に向かう道だ。

私たち子どもは、今思えば意外と無邪気にスキップなどをしながら両親と一緒に歩いてた。世の中を斜に構えて見てた生意気なガキだったはずなのに。

両親は近くのベンチで談笑するよう指示され、子供は展望台に登り、眼下に見えてる両親に手を振ってくれと言われた。

私は手を振った。幼い弟はその横で無意味に飛び跳ねている。あとでCDを見返すと2人とも本当に無邪気だ。

あの頃は障害者だったのは父だけだった。しかし遠くない将来に母も障害者になってしまう。元気で美しかった母の記録としても、我が家的にはとても貴重な番組となった。

 

 

次に映し出されたのは車中で談笑する両親、何が嬉しいのかさっぱり思い出せないけどムダにはしゃぐ私、ひとりで笑ってる弟。

この絵をバックにして音声が入る。

 

夫婦とは何か。

幸せな結婚生活を送る夫婦。苦難を乗り越えようとする夫婦。幸せは夫婦の形だけあるといえる。

夫婦が手を携えて生きていこうとしなければ、どんな家庭生活を送っていても幸せになることはできない。

 

こんな内容のアナウンスが、短調の悲しげな音楽と共に流れてきた。

ここから先は、両親のこれまでの人生の歩みを尋ねるインタビューが続く。

 

自力で事業を興したバイタリティにあふれる若い頃の父

そこで経理事務をやっていた母

脳血管に異常があると分かった時には私が生まれる寸前だったこと

当時の医学では脳動静脈奇形は不治の病で、奇跡的に命を取り留めたこと

その後のリハビリが過酷だったこと

現在は就職に向けて職業訓練校に通っていること

何とか年を越すために母がパートに出ていること(撮影は12月だったようだ)

 

ある時、子供たちに聞いてみましたんですけどね。今お父さんが病気で亡くなってしまうのと、身体が不自由になっても生きててくれるのと、どっちがいい?と

 

あの時の母の厳しい瞳を私は当時もはっきり覚えていた。6歳の私は「生きてて欲しい」と答えた。弟にはその時の記憶は全くないようだ。3歳だから当然だ。

脳動静脈奇形が私の家庭を壊しはじめた

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いつも『お父さんお父さん』と慕っているところを見るたびに、身体は不自由にはなりましたけどね、まあ、これでよかったんじゃないかなと思う…思てます

 

次に続くのは私の声だ。カンペは全くない。お父さんについて思った通りに話せと言われた。

 

ある時、誰かに聞いてみたんです。手術に何時間かかったのかと

 

父の手術は数回に分けて行われたそうだ。その頃は私も弟も知り合いの家に預けられていたため、父の手術のことはリアルタイムで知らなかったのだ。

 

(トータルで)40時間近くも掛かったって聞いて、私はびっくりしました

 

悲しい短調の音楽が私の声とかぶる。

 

手術をした後のお父さんを見たとき、私が知っているお父さんと全く別人になっていて。本当に悲しかったことを覚えています

 

全くよどみなく8歳の私はマイクに向かって話している。

昔の私は、驚くほどしっかりしていると誉められることが多い子供だった。テレビのナレーションもそう言った。

 

映像は、保育園に弟を迎えに行って、手をつないで長い階段を降りてくる私の姿に変わっていた。

流れている音楽とは裏腹に、あの頃の私は自分たちを誇らしいとさえ思う子供だった。

 

周囲の人は憐みの目で見ていたかもしれない。でもそんなことは関係ない。自分をどう思うかは自分の心が決めればいいこと。

困難に流されて自暴自棄になるか。困難を上手く受け流しながら上流へ泳ぐ道を選ぶか。

決めるのは私自身。偉そうだと思われても生意気だと思われても、私は上しか見ない。

 

病弱な弟の手をつなぎ、「この家を守るのは母と私だ」と固く信じてずしずしと歩いてる。私はそんな少女だった。

 

 

 

音楽は一転して明るいものに変わる。

映っているのは身体障害者職業訓練校に通う父の姿。動く片手でそろばんをはじいたり、文鎮でページを押さえてテキストに書き込みを入れている。

 

父の利き手は左。つまり麻痺してしまった手の方だ。字を書く練習もおぼつかないのに、早く就職口を見つけるべく訓練校に通っていた。

事務作業ができるよう、珠算と簿記の検定に合格することを目指していたのだ。

 

身体の不自由さを補って余りあるバイタリティ。一家を支えていく責任を果たそうと必死に努力している

 

あとになって聞いた話だけど、「頑張ってる障害者の番組を作りたい。誰かええ人を紹介してくれへんか?」という依頼が訓練校に送られてきたそうだ。

そこで白羽の矢が立ったのが父だったというわけだ。

 

 

ここで音楽が暗転。次は職業安定所で担当者と面接している場面に切り替わる。

 

満員電車でも十分いけますか?

 

かろうじて杖をつかずに歩いてる父に満員電車などムリに決まっている。

「はい」と力強く父は答えたが、誰の目から見ても満員電車など到底無理だ。一番よく分かっているのは父本人だろう。

 

職安の担当者は口調を変えずに話を続ける。

 

こういう不景気な時期ですからね…正直申し上げて、あなたを採用したいという企業は1つもないんです。例年ですと1~2件はあるんですけども。ま!これからですわね!

 

本当にこれからなんだろうか。車で通勤でき、経理事務をやらせてくれる会社に採用されるだろうか。

 

 

 

場面は一転する。こたつに入って何枚も何枚も履歴書を書き続けていた父をカメラがアップで抜いた。そして次第に引いて周囲が映り始める。

テレビカメラの視野に私と弟の姿が映る。平和そうにみかんを食べている弟の横で、私は父と話し始めた。

 

なあ。それ(履歴書)どこに出すん?

…いろいろ

それで何枚も書くんやね

…長いこと、書いたことなかったんやけどね

 

 

利き手と反対側で書く文字は、かろうじて判別可能と言っていいものだった。

コンピューターもワープロもない時代。事務作業は全て手書き。この文字を見ただけで書類審査に通らないことは、子供の私にも薄々理解できた。

それでも書きあがった履歴書には顔写真を貼り、母が神棚に備えていた。

 

ここでナレーションが入る。

 

就職をするために過去を書き連ねる。辛い過去をなぞる作業である

 

ほんとうにそうだ。

 

 

放送から数か月後。履歴書は全てムダになった。事務系の仕事に就くことは叶わなかったのだ。

手術後からの3年間に父が力を尽くしてきたことは、就職には全く役立たなかった。

利き手ではない手1本でそろばんをはじき、珠算も簿記も3級の合格通知を手にしていたけれど、不況には勝てなかった。

資格だけで仕事につながるほど世間は甘くない。

 

父はパチンコ屋の景品買取所の中で、訳の分からん文鎮が入った小さな箱を現金に交換する仕事を始めた。

 

 

 

今度は子供、主に私の日常生活にスポットライトが当たる。

小学校の教室で九九を教壇の前で暗唱する私。

校庭で飛び跳ねて笑う私。

大きな体に不似合いなランドセルを背負って保育所に行き、弟を家に連れて帰る私。

 

 

そして、そろばん塾へ出かける私。

独身時代に経理事務をしていた母と、就職に向けてそろばんの勉強をしてた父を見てた私は、そろばんは就職と経済的自立の手段だと思っていた。

 

結局、私が将来就いた仕事は経理事務じゃなかったけど、当時の両親の姿から得たものは大きい。

今の境遇がどうであれ、将来に向けて努力することの重要性を私は学んだ。

45年経った現在も、私の心の柱を形作る大切な価値観となっている。

 

 

当時は身体障害者という言葉ですら一般的なものではなかった。そんな柔らかい表現で呼ばれることは少なかった。

具体的に書きたくない。放送禁止用語でもある酷い言葉。

私の父の場合だと「ち」で始まる3文字。「ば」で終わる3文字だ。

 

だからだろうか。小学校の広報には「厚生障害者として生きる」と書かれていた。

「身体障害者」という言葉を誰もが知っている時代じゃなかったから仕方ないとはいえ。

だから書き間違えただけなんだろうとも思いはしたけれど。

学校の先生でさえ知らないのか、とショックを受けたことは確かだ。

 

わら半紙に印刷された手書きの広報に、怒りを込めて太い鉛筆を使って訂正を書き込んだ。

厚生障害者。そんな言葉はないんだよ先生。

うちにいるのは、身体障害者のお父さんだ。

 

 

テレビ出演から20年弱の時が経ち、私は大学を卒業して高校教師になっていた。

 

ある日、職員室の机の上に一枚のリーフレットが置かれていた。

全教職員の机上に置かれていたつるつるの紙は、大阪府教育委員会の関連団体が作ったもののようだった。

 

「教材にいかがでしょうか。過去のテレビフィルムの貸し出しを行っております」

障害者問題や部落差別に関するものばかりが並んでいた。

 

「あ?!」

見覚えのあるタイトルを見つけた。

 

「現代を生きる ~夫と妻と~」

 

これだ!私たちが出演した番組のタイトルだ!

そうか、まだテレビフィルムがまだ残ってたのか・・・

二度と見ることはできないと思ってたのに。まだあったんだ。借りたら見られるんだ。

 

 

1975年当時、一般家庭にビデオデッキなどなかった。1975年当時の我が家にあったのは、録音機能がついたラジカセとカメラくらいだ。

だからテレビ放送の日には、テープがちゃんと回ってることを確認しつつ、父はカメラのシャッターを切りまくりながらテレビ画面を追った。

一生に一度しか見られない番組。当時はそれが当たり前だったんだ。録画する器械がなかったんだから。

 

もう一度リーフレットを読んだ。

「学校・福祉団体へ教材としてのレンタルに限る」と書かれている。

 

よし。私にはレンタル申し込みの資格がある。教材として借りればいいんだ。

差別について学ぶ時間が年に何度かある。そこで借りよう。そして言おう。これは私だと。

私自身が生きた教材になろう。

 

けれど何らかの事情があって実現できなかった。何らかの理由で他の行事に充てられてしまったからかもしれない。

 

 

さらにそこから20年程度の時が流れた。

あのフィルムはまだ残ってるだろうか。今ならフィルムをCDに焼いてくれるサービスがある。一生手元にあの番組を残しておくことができる。

 

もう両親は鬼籍に入って長い。私自身の脳血管もいつどうなるか分からない。

動くなら早い方がいい。探すなら今だ。

大阪府教育委員会や毎日放送に連絡を取り始めた。

ところがフィルムの所有権がこの40年弱の間にあちこち変わっていったらしく、簡単には所在がつかめない。

もうだめか・・・と諦めかけていた時に大阪からメールが届いた。

「あります!残ってます!でも貸し出しは団体に限るという条件付きです」

 

団体か。もう高校教師を辞めている私に、福祉問題を学ぶ団体を率いてる証明書を出すのは無理だ。

知り合いのツテをたどって福祉団体につなげないだろうか。ここまできて諦めるのは口惜しい。

フィルムが廃棄されないうちに、私が脳出血を起こす前に。なんとかしなければ一生後悔する。

当時のことをきちんと覚えていないと言う弟に、父が自立を求めて立ち上がり奮闘していた姿を見せてやりたい。

 

幸運なことにとある団体の協力を得ることができ、フィルムを借りるために大阪のとある図書館に出向いた。

 

 

重たいフィルムだった。ここに入っているのは16ミリフィルム。昔の映画館に出てくるような巻取り式のフィルムだ。たった30分のフィルムだというのに、重さは数キロあるはずだ。

貸出期間は2週間。予め探しておいた業者さんは、フィルムが古いので時間が掛かるかもよと言ってたな。フィルムの返却期間内に何とかならないか連絡をしたところ、申し込みの順番がありまして…ということだ。

確かにそうだ。横入りはよくない。でも2週間で返さないと、ご厚意で私に力を貸してくれた福祉団体の方にご迷惑が掛かる。

厚かましいのを承知で業者の方に事情を話した。

 

このフィルムに映っているのは45年前の私と両親なんです。無理を言って大阪府の所轄部署から借りてきました。2週間以内に返却しないといけないそうです。

お店の事情、重々承知しております。厚かましいことを申し上げてはいけません。順番に作業をされるのは当然のことです。

ですが、もし可能でしたら、元気だった頃の母、若かった頃の父、子供だった頃の私に会わせては頂けないでしょうか・・・

 

「・・・え!」

 

お店のご主人の声のトーンが変わった。

 

「そんなに大事なフィルムを当店に!!

分かりました。真っ先にやります。丁寧にやります。撮影されてから相当時間が経ってますから、損傷もあり、色も赤くなっているはずですが全力で復元します。

追加料金なんかいりません。ホームページに書いてある料金のままで請け負います。CDは何枚必要ですか?」

 

「1枚で十分でございます。遺影を抱いて弟と一緒に見ます。きっと喜びます。ご厚意に心から感謝いたします」

 

その後 私の手元には、真っ赤でよく分からない修正前の映像を焼いたCDと、多少赤いけどしっかり映像が確認できるCDの2枚が送られてきた。

 

申し訳ない。赤みを完全に取り除くには、もっと設備の整った専門性の高い業者さんにお任せしないといけない。映画の修復なんかを手掛けるところです。

ウチでできることはこれが限界でした。これでどうでしょうか?

 

充分すぎるお気持ちとフィルムとCDを返送してもらって、急いで大阪にフィルムを返してきた。期日ギリギリだった。

 

 

諸般の事情で画像にモザイクをかけてあるけれど。

お店のご主人の手で復元された我が家の45年前がこれだ。

 

 

通勤途中の母の姿から映像は始まる。健常者だった頃の貴重な映像だ。

しかしこの数年後に母は身体を壊し、脳出血を起こし、重度身体障害者となり、短い人生を閉じた。

父が死んだ半年後の寒い朝だった。車椅子から転げ落ちて息絶えているのを弟が発見。おそらく脳内の血管腫から大きな出血を起こしたんだろう。

 

 

 

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くりからん

全身に遺伝性の血管奇形があります。脳や脊髄、身体を支える大きな骨に至るまで。出血するたびマヒや発作が強くなるのに、手術は危険なのでできません。そんな人生も半世紀を越えました。老後が見えてきた今。何をしておきたいか。どんな人生を送りたいか。日々考えてます。

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