私の脳内にある血管腫は治療不可。人生半世紀を過ぎた私に残された時間はそう長くないことでしょう。でも絶望も恨みも悲しみもない。自暴自棄になることもない。「なぜあなたはそんなに強いんですか?」とよく言われます。おそらく、血管奇形や身体障害を持っていた両親の元で育ったからだと思います。当時は障害者への差別や偏見が今よりずっと厳しい時代でした。環境に潰されたくない。幸せをつかむにはどうしたらいいか。ずっと試行錯誤を続けて大きくなりました。そして私なりに出した結論はこれです。
人生というのは、与えられた身体と環境でどれだけ幸せをつかめるかを楽しむゲーム。世間のせいにしても病気のせいにしても誰も助けてはくれない。最終的に自分を幸せにするのは心の持ち方にかかっている。
そう思えるようになった私の半世紀の記録です。
私の生い立ちは複雑だ。
どれもこれも根本原因は脳血管奇形と障害者問題にある。
私が生まれる前から父はけいれん発作を起こしていたと聞く。
その原因が脳内にある脳動静脈奇形で、放っておくと大出血を起こして命にかかわると診断されたのは、私がまだ幼児だった頃だ。
今ならガンマナイフなど侵襲性の少ない治療法があり、開頭手術の必要はなくなったと聞く。
しかし当時は手術で切れる先生自体が少なかった。
母曰く、「気が狂ったかのように、あちこちの病院で診察してもらっていた」そうだ。
やっとこの先生にならお任せできると思える先生と出会い、父は一世一代の大決心をする。
今書いてるのは45年以上前の話だ。
当時の病院は完全看護ではなかった。入院患者の世話をするのは看護師ではなく、泊まり込んでいる身内か雇われ付添婦。
付添婦さんを雇うのには高い金が掛かる。
入院が長期化することが確定的になったので、父が退院するまで母が病院に泊まり込むこととなった。
私が6歳、弟が3歳のことだ。当然子供2人で生活できる年齢ではない。
私たちを預かってくれるところがなかなか見つからない。こういう時に人間ってのは本音が出る。関西に住む親戚は全部ダメだった。
仕方なく私たち子どもは関西から遠く離れた人の家に預かってもらうこととなった。
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ところがだ。そこの家のおじさんは酒ぐぜが悪く、酒が入ると別人になる。
一緒に住んでる女の人は奥さんなのかと思ったらなんと愛人。時々本妻さんが家に怒鳴り込んでくる。方言が強すぎて何を言ってるのかは分からない。
私は気に入られなかったらしく、ある日の夜、出ていけお前の面倒は見ない!と宣言される。
それ以来私はツテを頼って、あちこちのお宅のお世話になる暮らしをすることになった。
空腹だった。寒かった。公園に落ちてるものを拾って食べたこともある。
見かねたホームレスが、貴重なお金を使って私にパンの耳を買ってくれた。
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6歳の冬が段々春に近づいてきた。私はこの春に小学校に入学することになる。
将来のことを考えて、実家のある街で入学した方がいいということになり、私だけ大阪に戻ってきたのはいいのだけれど。
母は病院につきっきり。なかなか病院の父から目が離せない。関西の親戚はやっぱり知らんふり。
結局私は半年くらい家で一人暮らしをすることになってしまった。
給食が始まるまではカップヌードルが主食だった。日清さんには心から感謝している。
父がリハビリ病院に転院した頃は時々母も家に帰ってきた。
ある日、母と共に病院に見舞いに行った時のことだ。人間の足はこんなに重いのかと思わずにはいられない姿で父はリハビリをしていた。
生きるのはとても大変なことだと、父の姿をじっと見つめた。
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でも世間の理解は酷いものだった。なんてことしやがるんだこいつは!という大人ばかりだった。
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大人がそんな調子だから子供も真似するんだろうな。
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やっと家族4人がそろって暮らせる見通しが立った時、弟が預け先から返されてきた。酒ぐぜの悪い男と妻子ある男と一緒にいる女の家からだ。
歯を見てぎょっとした。
乳歯が真っ黒だ。
「どないしたんやこれ!?」
「毎日ごはんはお菓子やったから」
弟はにこにこしてるけど冗談じゃない。ご飯を食べさせずお菓子だけ与えられて生きてたってことだ。
この女は母の異母姉妹なんだけど、10年後に創価学会に入信し、我が家にとんでもない勧誘をしかけ、あろうことか障害年金を細々と貯めて作った200万を借りて踏み倒したヤツ。家の中を壊滅的状態にして偉そうに去ってったヤツ。脳内に問題があるのはうちの家族じゃなくてオマエだよ。
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私たちが住んだのは、社会的底辺の人たちが住む団地だった。
- 昼間からクスリをキメてそうな下着姿の同級生の母親。
- 同じく昼間から酒をかっくらって暴言を吐きながら電信柱にもたれて座ってるオッサン。
- ヤクザ。
- 痴呆症だと思われるおばあさん。
- 両親が突然に家を出て行ってしまい、兄弟2人で住んでいる家。
- 精神を病んでいる青年がいるお宅からは連日叫び声が聞こえてきた。
- 身体障害者もたくさん住んでいた。そのうちの1つが我が家だ。
言葉を選ばずに書くなら、社会の掃きだめのような地域だった。
病弱な弟や父を馬鹿にするヤツらは、勝てると思った時には必ずボコボコにしてやった。仕返しする気がなくなるくらい殴り続けた。
やがて、家の中で健康なのは私だけになっていた。母はやがて少しずつ身体を壊すようになり、最後には脳海綿状血管腫から大出血を起こし、重度身体障害者になって死んだ。
私が家を背負って立ってる。文字通りそんな状態だった。
ささやかな幸せを感じた時は既に過去だ。
続きを見る利き手が動かない父のために 我が家のプリンはどんぶりで作っていた
同じ団地に住んでる同級生の中には、既に非行少年少女の芽が出始めてるのがいっぱいいた。
万引きに誘われたり、賽銭泥棒に誘われたり、一緒に死のうと誘われたり。当時小学3年生だった。
酔っぱらったオッサンがいきなり一升瓶で私の頭に殴りかかってきたこともあったな。
「お前の父親と同じよう身体にしてやるわ!」と叫んで突っ込んでこられたときには本気で命が危ないと思った。
死ぬと言えば。父が書き置きを残していなくなったことが2度あった。ただの失踪じゃない。自ら命を断とうとしに行ったんだ。
身体が不自由だから遠くには行けないはずだ。探しに探した。
すんでのところで間に合った。号泣しながら制止した。せっかく助かった命をムダにしたらアカンお父さん。
私はあと10年したら大人になる。そこまで頑張って。勉強しながらお金をもらって学校行くから。
就職先が見つからなくても生きていける。障害年金があるやん。何をしてでも命は守らなあかん。何のために手術をしたんや。生きよう、思いとどまろう。
後になって分かったことだけど、お金の問題よりも人としての尊厳を傷つけられ続けたことに耐えられなかったみたいだ。
口には出さなかったけど、「そりゃそうだ。あんな目に遭わされ続けたら心が壊れても無理はない」と子供ながらによく理解した。
私は今でも父の書き置きを捨てずに持っている。わら半紙に動く方の手(利き手じゃない方の手)で書いたぎこちない文字。やっとの思いで書いた文字。
「幸薄く生まれた私には君たちを幸せにする自信も力もない。今までありがとう」
母と弟と私の名前が書かれていた。
でもなお父さん。こう考えて。お父さんひとりで家族全員を幸せにしようやなんて傲慢や。健康な人でも無理なんや。
人間は自分一人を幸せにするだけでも大変やねん。幸せは一人一人が自分の手で見つけて手に入れるもんや。
お父さんがくれるのを口を大きく開けて待ってるようなフヌケと違うで私は。子供やからいうてナメたらあかん。
こんなのが小学生時代の私の毎日だった。
子供が見ちゃいけないことも聞いちゃいけないことも、エロ系を除けばひととおり経験済みだったと思う。
なのに妙に勉強だけはできた。
ヘタな授業をする担任教師のことは心底バカにしてた。なんでそんな分かりにくい教え方をするかなあ?w
自習の時に私が教えてあげる方がよく分かるってクラスの子がみんな言うてるわ。もっと勉強して先生。
まあ扱いに困る児童だっただろうな。大柄な私は先生とほぼ同じ身長だ。怒らせたときの迫力は、その辺の男子児童の比じゃなかったはずだ。
私が小学校で一番背が高く体重も重かった。身体は大人の女性並み。学校で起こる男子同士のケンカの仲裁をしてたのは私だ。腕力で私に勝てる男はいなかった。小学生の時はね。
小学校5年生の秋に生理が始まる。その頃からなぜか自然にやせてきた。身体の成長が早かったので、痩せてみたらウエストがくびれて大人の女性と同じ体形。小学生には見えないとよく言われた。
体型は女性らしくなったものの、中身は世の中を斜に見てる憎たらしい小学生だ。人は信じない。本心は見せない。いつも人の輪を離れたところから見てるだけの小学生。
このまま中学生になってたら、ほぼ確実に中3で族のリーダー格の女になってたと思う。勉強だけはできるから、先生が腫れ物に触るようにモノを言う存在に育ってたはずだ。
そんな生活を過ごしてた小学5年生の3学期に転校生がきた。そのうちの1人が、今わたしが絶対にお礼を言っておきたい少年。
この子が私にどう接してくれたのかは、別記事にしっかり書いてある。受けた影響は本当に大きかった。
続きを見る君は「その男と話すな、僕を見ろ」と言いたかったんだよな?
世の中というのは私が思うよりも数段明るくて、大人は優しくて、子供は素直に甘えてもいい。そんな世界があるのかと思った。驚いた。
この子を通して見た世界は本当に美しかった。眩しかった。私の人生は12歳で大転換した。
続きを見る言葉を忘れる前に伝えたい。13歳の君が見せてくれた世界は美しかった
本人は特別なことは何もしていないというはずだ。
気になる女の子とお話しするのが楽しくて、本を貸したり一緒に遊びに行ったりするのが嬉しい。多分それくらいの気持ちだったと思う。
この子は本当に無防備なくらい素直で、そのくせ人を煙に巻くよう魅力があり、欠点はどこにあるのか分からないくらい完璧な少年だった。
その子が住んでたのは、私の校区の一角にあった超有名企業の社宅。明らかに空気が違う。文化水準の高い人たちがたくさんいる。
途中で私は引っ越すことになるけれど、その子から受けた影響はその後も続いた。
家庭的に色々と面倒なことが多くなってきたので、私は将来を考えて大学進学を見据えて勉強することに決めた。
成績が優秀なら奨学金で進学できる。東京は遠いので、京都大学か大阪大学を狙った。中学2年から狙った。
勉強ばかりした。中学でも高校でも。男と付き合うとかそんなヒマはなかった。
その子に連絡を取ることもしなかった。気持ちがくじけると思ったからだ。恋愛にうつつを抜かして成績がダダ下がりになる女子は多かった。
私は男で人生を誤るわけにはいかん。男も恋愛も断った。私の背後には私を支える壁も柱もないのだから。
続きを見る【弔辞】私の将来をひらいて下さった先生に この記事を捧ぐ
その子と再会したのは19歳。大学生になってからだ。ほんとうに美しい青年になってて密かにびっくりした。
大学生になれたら会おう。私はずっとそう思いながら受験勉強をしていた。あのスペックだと絶対彼女ができてるだろうな、と思いながらも。
この人は私に世間の温かさや人生の面白さを教えてくれた教祖のような存在でした。
もし出会えてなかったら、頑なに冷めた心を抱えてた私は、少年院に入るレベルのワルになっていたかもしれません。
だから私が言葉を忘れてしまう前にお礼を言おうと思い、ずっと探していたんです。
やっと居所が分かり連絡がつきました。最後に会った時から35年の時を隔てて。
白血病とその治療の過酷さのせいで、運動機能も内臓機能もずいぶんやられてしまってましたが、まだ存命でした。
間に合って本当によかったと思っています。
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