障害者と生きる・障害者として生きる

家族が落とした命のバトンを拾って走る。ゆっくり景色を楽しみながら

 

私は とある遺伝病と共に半世紀を生きてきた。その病気は脳血管に障害を起こす。病名や病状についての詳しい話は別ブログに独立させた。

 

遺伝病なので、私と血のつながった家族は、だいたい50%の確率で同じ病を引き継ぐことになる。私の記憶は約半世紀分あるが、その中だけでも、命を落としたり、重い障害を負ったり、社会復帰が危ぶまれている身内が何人もいる。彼らは若くして命のバトンを落としていった。何の予兆もなく、突然に。

ひとりは就寝中に息を引き取った。ひとりは台所で倒れた。ひとりは病室内の簡易トイレ横。ひとりは浴室から出た瞬間。ほんのついさっきまで元気だった人間が、次々と身体の自由を奪われ、最期には命をとられてしまった。

 

 

彼らと同じ遺伝子を私も引き継いでいる。脳血管の病変はいくつもあり、中には致命的なものもある。

私がそれなりに自由な暮らしを送れているのは、単にまだ大出血を起こしてないだけに過ぎない。私が覚えている範囲の身内で、この病気を持ちながら自立生活を全うした人間はいない。だから、「次は私だ」と覚悟しつつも、どこか感覚がマヒしてるのかして、恐怖を覚えることなく淡々と生きている。

病変の数は年々増え、ごくわずかに出血するものもある。それにつれてできなくなる動作、分からなくなる難しいことが増えた。

 

 

それでもこれは運命だ。私はこの身体で生きていくしかない以上、失われゆく機能を嘆いてみてもムダなこと。残存機能をいかに効率よく活かして楽しく生きていくか。真剣に考える価値があるのは、その1点なんじゃないかと思ってる。

同じ病を引き継いだ私が、先に旅立った親・子・兄弟・親戚のためにできる供養は、彼らの命のバトンを拾い、私の命のゴールがくるまで一緒にゆっくり走っていくことだと思う。もう速くは走れないし走ってはいけない。ゴールにたどり着く時間を少しでも伸ばすためには、身体に負担をかけないよう、ゆっくり走ることだ。周りの風景をちゃんと見て記憶にとどめるのも大切。

生き急いじゃいけない。トロ臭く見えようと、みっともなく見えようと、元気な他人さんの視線を気にするのは愚かなこと。私は4人分のバトンを持っているのだから、速く走れなくて当然。むしろ、好きな時に立ち止まって、「ええ景色やなあ・・・な?そう思うやろ?」とバトンに話しかけるくらいが丁度いい。

 

 

私だけに限らず、人は何らかの荷物を背負って生きているのだから、平均とか標準とか常識とか、そういう基準に自分を当てはめすぎて一喜一憂しすぎない方がいいと思う。衣食住の最低ラインを確保できてるのなら、時には人生の運動場で足を止め、楽しいもの、好きなものに心を休める時があっていい。校庭の木々の緑が輝いている。どんな人生を歩んでいても、見つけようと思えば美しいものはそれなりに見つかる。少しくらい目を楽しませてもいいじゃない。

 

 

私は50歳で仕事を引退した。身体にかかる負担を減らし、命のバトンを持って少しでも長く人生を楽しむためだ。大学生のバイト時代も入れれば35年続けた仕事は私の夢だった。大好きな仕事だった。でも、身内がどんな最期を迎えたかを考えると、50歳まで生きている自体が奇跡のように思えた。仕事よりも奇跡の延長を優先し、5年が経った。今流行りの言葉で言うなら、不本意ではあるけれど、私はFIRE達成者。FIREってのは、経済的に自立して早期退職をすること。一般的にFIRE生活を送る最低条件としては、資産1億円を年利4%で運用し、運用益の400万でつつましく暮らすことらしい。

我が家に1億もの資産などない。しかし、身体の機能との引き換えで得た障害年金と、12歳も年上の夫の老齢年金がある。言葉が適切かどうか分からないけど、労働にて得た金じゃないので、資産運用益と同様に、一種の不労所得なのかもしれない。そのうち支給額が減額される時代がきたら、資産運用で少しは増えてるであろう数千万の資産で不足分を補えばいい。計算上、今まで通りお金を大事に使って暮らすなら、我が家は100歳まで生きても大丈夫みたいだ。

 

 

私はもう働く気はない。身体の機能や頭の働きが削ぎ落されていき、新しいことを覚えて機敏に働くことができないからだ。とはいえ、多くのFIRE達成者が口にしてる通り、働かない生活には飽きがくる。虚しさに苛まれる。だから多くの人は、好きな仕事を無理のない範囲で続けていたり、趣味やボランティアの世界で活躍していたりする。これを書いているのは2021年の秋だ。病気を持つ身としては外出を最小限にとどめたい。そこでブログを書き続けている。

このブログには、不本意なFIREをした私が、50歳から始めたこと、続けていること、振り返っていること、備えていること、老後資産をどうするか、などについて書いていこうと思っている。「病気を抱えながら」という1点を除けば、健康な50代女性が遭遇したり体験したりすることを私もやっている。断捨離には手を焼いてる。ネコは可愛いし、ベランダ菜園の世話は楽しい。お刺身は定価で買わないダイエットを成功させて45キロやせた。

 

 

縁あってこのブログにおいでになった方。

病気にならないに越したことはない。でも人間は永遠に若く健康に生きられるものじゃない。いつか身体にガタがくる。人の手を借りないといけなくなるかもしれない。そして命のバトンを落とし、すうっと空に吸い込まれていく瞬間がやってくる。

生活防衛のため、健康維持のため節約や資産運用ダイエットや将来の不安が頭のどこかに引っかかっているかもしれない。その点に関しては私も同じ。このブログに色々書いてある。

何か気になる記事が見つかったら幸いです。

 

 

同じ病気(脳海綿状血管腫)を抱えている方

ぶっちゃけ場所が場所だけに、楽しい嬉しいばかりの人生を送れ、病気になってよかった♪とかふざけんな、って気持ちになるときもあるよね。病に闇はつきものだと思う。だから、病気の専門的な話はここに書かず、別の場所に独立させた。よかったらリンク先へ飛んでください。

 

 

「人生は綺麗ごとだけじゃ済まねえんだよオマエに何が分かる?」と思われた方。

確かにあなたが抱えている命のバトンの性質と重さを知るすべはない。でも私は私なりに、元気だった幼少期から、障害者だった両親を通して人生の闇をそれなりに見てきた。恵まれた環境で育ち、輝く青春を送った人間ではない。自分で言うのはヘンだけど、どん底から這い上がって今があると自負している。

給食費も学費も免除される障害者家庭の娘として。おなかが空きすぎて木の枝をチョコレートと空目して泣きながら食べた幼少期。命を断とうとする父親を説得した9歳の頃。宗教団体が父と一緒になって連日母や私を責め続け、とうとう母が潰れてしまった中・高時代。入退院を繰り返す両親不在の家で兄弟と2人で暮らし、家計管理・家事一切と受験勉強を何とか切り抜けて京都大学に手が届いた。何とか人並みの暮らしを送りたかった。結婚なんかムリだと分かってたから、大学で専門知識を身につけて自分の食い扶持は一生自分で稼げる女を目指してたので、合格は本当にうれしかったな。

そこから時が過ぎ、今わたしが住んでるのは東京湾岸タワマンの最上階だ。本当の金持ちはこんなところには住まない。東京23区の文京区とか港区とかに豪華な一軒家を構えて住んでいる。そこまでは全然手が届かなかったけど、気に入った家に住めて、チョコレートをお金の心配なく買える暮らしができて満足だ。

50歳という人生の節目を迎え、半世紀の人生を棚卸しするために過去を記録しているので、私がどんな人間かに興味を持ってくれたら読んでみて下さい。

 

 

「病気になってよかった」「病気さんありがとう」

こんな言葉は大嫌いだ。言ってるご本人は心からそう思える体験をしたんだろうから、その思いを否定するつもりはない。私の性(しょう)に合わないだけだ。

遺伝病は避けようがない。この身体でこれからも生きていく以上は

「病気やけど、人生はそれなりにエエもんやった」「陰キャやったけど、結婚生活は楽しかった」

と思えるような後半生を送ってみたい。4本のバトンを抱えてても、まだ片手が空いてるじゃないか。これだ!と思うものと出会ったら、迷わず掴む。今も昔もこれからも。

 

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くりからん

全身に遺伝性の血管奇形があります。脳や脊髄、身体を支える大きな骨に至るまで。出血するたびマヒや発作が強くなるのに、手術は危険なのでできません。そんな人生も半世紀を越えました。老後が見えてきた今。何をしておきたいか。どんな人生を送りたいか。日々考えてます。

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